1962年10月22日、MRAアジアセンターが竣工し、池田首相をはじめ内外の有力指導者多数の参列を得て盛大な開所式が行われた。
開所式各国国旗掲揚
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開所式 中央は鈴木十郎市長
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開所式 池田首相
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これよりさき昭和35年(1960)、アジアにおけるMRA活動の拠点としてセンターを建設することが関係者の間で合意され、そのための土地の選定が進められていた。富士山麓の朝霧高原等、幾つかの風光明媚の地が候補に挙がっていたが、アクセスの難しさや価格などの面で異論があり、決定には至っていなかった。たまたま同年5月のある日、国会周辺が日米安保改定に反対するデモ隊に取り巻かれ、議員すらも中に入れない状態となった。そこでセンター建設の熱心な推進者の一人だった千葉三郎議員から、このいわば予想外の臨時休業を利用して、たまたま国鉄の十河総裁から紹介と推薦のあった小田原の閑院宮邸の土地を見学に行こうという提案があった。早速数名の関係者が湘南電車を利用して(新幹線はまだ未開通)小田原に向かい、宮邸を訪れた。一行が異口同音に感動したのは、相模湾から伊豆諸島、房総半島までを見渡す庭園からの風景であった。しかも十河総裁の強いリーダ−シップで着工した新幹線が二年後に開通の予定で、小田原の新駅の建設も始まるということで、この土地を建設予定地とする案が俄に現実性を帯びることとなった。
アジアセンター建設予定地の航空写真 (昭和36年当時)
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閑院宮邸より相模湾を望む
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閑院宮純仁親王
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閑院宮純仁親王にもお目にかかり、公的な利益に役に立つという条件で、土地の売却にもご異存がないことを確認し、建設の計画が急速に推進されることとなった。昭和36年(1961)4月には工藤昭四郎都民銀行頭取を理事長として「MRAアジアセンター建設後援会」が組織され、理事として十河信二国鉄総裁、千葉三郎自民党国会議員、山際正道日銀総裁、渋沢敬三元大蔵大臣、早川慎一鉄道弘済会会長らが名を連ねた。約8,000坪の土地は閑院宮から一億円で譲り受けることとなり、その代金は当面都民銀行からの借入金で賄うこととし、建設の計画が始動した。基本設計はスイスのコーのセンターの整備にも関わったチャールス・ルドルフという建築家に依頼し、顧問吉村順三氏のもとに、施工は清水建設を想定して準備が進められた。
建設趣意書(和文)
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清水建設と打ち合わせる吉村順三氏(右)
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模型
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小田原市もこの計画を全面的に支持し、ビルマの高僧、ウー・ナラダ師による地鎮祭をはじめ、建築中の多くの行事に鈴木市長自ら参加されたほか、固定資産税の減免など、有形無形に多大の支援を与えられた。
ビルマの高僧ウー・ナラダ師による 地鎮祭右端は鈴木市長
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国鉄総裁公館にてアジアセンター 建設について打ち合わせ (左より千葉三郎、山際正道、渋沢敬三、 十河信二、後向きは、チャールズ・ルドルフ)
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旧閑院宮邸庭園 三井高維、 千葉三郎、右は工藤昭四郎
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工事の開始は昭和37年(1962)1月、以来約10ヶ月の突貫工事により、同37年(1962)10月には地下2階、地上5階、総面積7,500平方メートルに及ぶセンターが完工した。
鈴木市長 背景は旧閑院宮邸日本間
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旧閑院宮邸庭先にて会合
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募金趣意書
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鈴木市長と設計者ルドルフ氏
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建設風景
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完成間際の建物を視察する右より、 藤井崇治、十河信二、小金義照
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MRAハウスにてセンターの建設と 第1回小田原世界大会の打ち合わせをする (左より藤井崇治、工藤昭四郎、佐藤栄作、十河信二)
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4億円に上る建築費と1億円の設備費を賄うために各企業や団体、全国の多数の個人から心のこもった寄付が寄せられた。一方諸外国からも下記のような金品の寄贈を受けた。
- 毛布、家具、(オーストラリア、ニュージーランド)
- 食器洗浄機(ドイツ)
- 水回り器具(スイス)
- 36mm映写機一式(オランダ、フィリップス社)
建設風景
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全景と小田原城
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上空より完成したアジアセンター (○印)と富士山を望む
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10月22日、池田首相の臨席を得て行われた開所式には、韓国から金鐘泌中央情報部長が特に来日した。当時日韓両国の間には国交がなく、特に韓国では朴正熙将軍を中心とする革命政権が成立した直後であり、両国政府間の交流は中断に近い状況にあった。そうした中で旧陸軍士官学校出身で、朴氏の片腕を勤める金鐘泌氏が、かねがね興味を寄せていたMRA運動への参加を理由として非公式に来日したことは極めて異例で、内外の注目を集めた。金氏は小田原の行事が終わったあと数日間東京に滞在し、関係者と接触したが、その結果がやがて「金・大平メモ」として結実し、3年後に実現する日韓正常化への布石となっていった。
金鐘泌 韓国中央情報部長
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吉田元首相、左は 山際日銀総裁、右端は近藤鶴代議員
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河野一郎議員
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千葉三郎議員
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小金義照議員と北沢直吉議員
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内山神奈川県知事(右)
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開所式には金氏のほか各国の要人多数が参加され、台湾の蒋介石総統は何応欽将軍に託して自筆の書を寄贈され、ベトナムのゴ・ディン・ディエム大統領からは漆塗りの美しいキャビネットを贈られた。
台湾何応欽将軍(左)と十河信二国鉄総裁
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ゴ大統領から贈られたキャビネット
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終戦後17年、高度成長が本格化する前にこのような計画の実現が可能となったのは、戦後世界の再建に関わる国際MRA運動の、日本に対する物心両面での広範な貢献と、それに感動した数多くの人々の積極的な協力と支援によるものであった。
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