
たまたま目にした新聞広告で、木村太郎さんが2007年に脳梗塞に見舞われたお姉様の利根子さんの「身辺整理」をされている時に見つけたメモと日記を元にして本を編集したことを知りました。即日買い求め、読み始めました。
「ディア・グロリア」は、トニーさんが1934年にお父様のお仕事の関係で幼少期にバークレー〜ニューヨークに移り、学校に通われたことからのメモ書き、太平洋戦争が始まった'41年にお父様を残してご家族で帰国してから、愛するアメリカが敵になる中日本人として生きる胸中をニューヨーク時代の友人に宛てての手紙形式の日記を元に、書かれています。
利根子さんは私たちにとってトニーさんですね。
私は移動学校でアメリカ縦断をしたSING OUT ASIAに参加した時に、トニーさんから英語での唱い方をレッスンされた事を覚えています。確か、"WIDE
AS THE SKY"はトニーさん作詞だったと思います。心に滲みるとても良い歌で、それを永田君のお姉様が透き通る声で情感たっぷりに唱われたのを思い出します。
それから、LIOJで英語のディレクター(?)として指導して頂いた時、独特の英語発声法を教わったり、皆でのイベントの際に、奇麗な声で英語の歌を披露してくれたことも。
今回この本を読んで、過激な歴史的背景でのトニーさんの子供〜ティーンエージャー時代を改めて知り、びっくりしました。
この本の優れているところは、トニーさんのメモ/日記を元にして、太郎氏が当時の日本と世界、及び個人的な背景説明を添えていることです。
1934年に銀行勤務のお父様がサンフランシスコ支店への転勤になった際の居住地が隣のバークレーだったということも初めて知りました。お父様がサンフランシスコの支店にフェリーで渡り、鉄道でバークレーに帰ってくるというところがありました。今は観光スポットとして知られているベイブリッジやゴールデンゲート・ブリッジができる前は、そうやってサンフランシスコとの行き来をしていたのだと、サンフランシスコに住んでいた頃、ここのベイエリア育ちの夫に聞いたことがあったのを思い出しました。
太郎さんがバークレーのアルタ・ベーツ病院で生まれたということを知って、ビックリしました。息子が生まれる前に夫とあちこちで出産前のクラスを受けていたのですが、ここはバークレーに長年住んでいるユダヤ系の友人が出産した病院で、ここでのクラスも取りに通っていたからです。
私は中学生頃からアメリカ留学に興味を持っていたのですが、その頃から読んでいた先輩方の留学記の中に、「雪の降る町を」を書かれた内村直也氏の娘さんのとってもユニークな「さてやじ公」があります。その内村氏が、トニー&太郎さんの母方の叔父さまということも初めて知りました。
私たちの息子も通っていた啓明学園に、トニーさんも帰国されてから、初期の帰国子女としてまだ赤坂の三井さんのお屋敷にあった時に入られたとのことです。木村太郎さんが入られたことは聞いていましたが、トニーさんもここで学んでいられたということは初耳です。考えたら当然のことですが。。その時に、ハーカー先生も教鞭をとっていたということも書かれています。開戦を伝えるラジオ放送も、「中学部の二宮さんと友人の岡さんがしばらく前から組み立てていた手製のラジオで」聞いたとありますが、こちらは岡じゅんのお父様のようです。
昔トニーさんにオノヨーコさんと学校が一緒だったと聞いたことがありますが、てっきりニューヨークでのことかと思っていたのですが、啓明ででした。
その他、アメリカでの背景から戦中戦後に特別な仕事を任されたことも分かり、最近仕事を通してからもこの辺りの状況/背景に興味をもっている私にとっても、感銘を受けます。
何年か前のアジアセンターでの集まりの時にトニーさんに何回かお会いした時に、私の名前を言って挨拶をしましたら、「神部さん、そんなことを言わなくても貴女が誰か分かりますよ」と言われました。
それが、アジアセンターの閉所式に車椅子でいらした際は、もう私が誰かはお分かりになりませんでした。
本を読んで、個人的にも繋がる所が多々あり、また歴史的な事も含めてトニーさんといろいろとお話したかった。。。と思います。
「歴史」の中での出会いというのは、何と不思議なことでしょう。
ウォーラー神部ちづ子