柳澤 元君

― チョンコに送る言葉 ―     No.1

去年の夏頃,クマからの電話の中で「チョンコがね,・・・」と云う言葉があり,「あぁ,チョンコかぁ」と,懐かしく頭に浮かんだのはもちろんあのころのチョンコ。みんな若い,僕だけが老け込むと思い込んでいるのです。

ところで誰がチョンコの名付け親なんですか?

まぁそれはよいとして,僕(のあの時期)にとってチョンコは少し特別な存在です。チョンコがどういう経緯で移動学校に入ってきたのか,聞いてはいけないようなムードもあり,(僕の)関心の低さもあり,実は全く知らないのです。知らないまま,「あの子は一筋縄ではいかないから君が(ぼくのこと)チェンジさせろ!」と先生に言われたかどうか定かではないですが,彼の「移動学校への融合と新たな人生の出発点」に僕がいろいろ動いたのは事実のようです。ただ,思い返すと,僕の行動・発言はナイーブで薄っぺらだったのに,どういうわけかチョンコに慕われるわ,お母さんには感謝されるわ,と,わけのわからぬ展開になりました。その後,アメリカでのコンサートで石金君とコンビを組んで以来,彼にとって良き先輩は石金君になったので助かりましたが・・・

でも,彼といろんなことを長時間話したことは覚えているのに,内容はさっぱり。きれいさっぱり頭から消えています。それなのに強烈に焼き付いている光景があります。北海道に行ったとき(コンサートだったかも不明)彼の家に泊まりました。そこで僕は初めて母子家庭というものを体験しました。母と子と家,という外見だけではなく,家の中を漂う空気など,すべてが何か違う,ということを強く感じたから今でも忘れられないのだと思います。翌朝の朝ご飯のアンチョビ(小鰯ていうのかな)の缶詰,おしんこ,暖かいご飯と味噌汁も忘れられない。そしてまだ薄暗い雪解け道を3人で歩いて出かけました。とことこと,じくじく道を歩き続け,まるで「トロッコ」のように心は浮かぶでもなく,沈むでもなく。そこでカット。記憶はそこで完全に切れています。ただ,お母さんが,喜びの涙を抑えながら(僕にはそう見えた),言葉は覚えていませんが,「この子は移動学校に行って本当に良く変わり始めた。この子も永田君を慕っているし,本当に暖かく可愛がってくれて(僕にはそう聞こえた)ありがとう」と話してくれたのを覚えています。

謙譲ではなく,自信を持って言えますが,僕は彼に悪影響は与えたかも知れないけれども,誇れるようなことは何もしていない。今思えば,行き場を失って,一歩間違えば,周りに当り散らしながら残りの人生を踏み外してもおかしくない若者が,本当は心の奥で誰も分かってくれない何かを求め続け,その受け皿となったのが移動学校。そして幸運なことに彼も「ここだ!これで僕は救われた」と感じたのではなかろうかと思います。だから彼は移動学校に入って慣れた後,水を得た魚のように急速に「前向きで建設的な(今となっては言葉にするのも恥ずかしい)」生き生きと生き始めたのではないでしょうか。

移動学校が生きる指針を与えた若者の筆頭とも云えるのがチョンコ,そんな気がします。

ところで,移動学校のウェブに掲載されていた彼の写真を見て,いやぁ変わったなぁと驚いた後,「アレッ,誰かに似てる」と思いました。そうだ,バスター・キートンだ。考えてみると,あの頃から,容姿もさることながら,雰囲気もキートン風だった。そして,歳をとってからも,中年の頃のキートンに似ている。ひょっとしたら生い立ちも。誤解を恐れず,失礼ではない表現だと信じて,失礼を承知で言えば,彼はバスタードだったのではないか!? たばこをくわえている写真など,プカプカの雰囲気もあるし,いやぁ参った。ぼんぼんの僕にはかなわない。悔しいけど,やっぱ,バスター・チョンコ,ばんざい!

 永田 一郎

 (HP編注:原文のまま載せています)
バスター・キートンとは、http://www.busterkeaton.com/
 

― チョンコに送る言葉 ―     No.2

「柳澤君・チョンコと出会ったのは40年前。その時は少し気障で目立ちたがり、そして独特な個性の持ち主としての印象が残っていました。

そして3年前の夏、北海道での同窓会での再開。会った途端にじゃれあうと言うか、冗談を言い合ってそれまでの時間・空間の壁など一切感じずに話ができたのには、不思議な感じさえ受けました。

横浜での加藤君の葬儀でも会って、その時もゆっくり話が出来たのですが、
その後メールのやりとりをよくするようになり、ロンドンから帰国直後にも
「クマに会ってきたと」ツーショットの写真付きのメールをくれて、電話でも
ロンドンの話をしたりしましたが、それが彼からの最後のメールになりました。
こちらからは3月はじめ頃にメールを出して、いつもなら返信をくれるのに
それがなくて、どうしたのかなとは思っていたのですが・・・
まさかこんな事になってしまうとは思いもよらぬ事で、逝去の知らせを受けた時は只々びっくりし、その次に何故?という思いと、札幌まで飛んで行けぬもどかしさがないまぜになってショックでした。

柳澤元という肉体を持った存在は、我々の前からは消えてしまいましたが、彼の‘たましい’はどこかの高見から私達を見てくれていて、また私達の‘たましい’とつながっていると信じています。
それにしても、風のように現れて風のように去っていった。
彼らしいといえば彼らしい生き方であり、逝き方でもあったと今は思っています。

合 掌

中村 仁

(HP編注:原文のまま載せています)
                                                                    

柳澤 元君のお通夜、葬儀

2010/4/25

柳澤 元君のお通夜、葬儀、亡くなった経緯を報告いたします。

4月20日午前11時に逝去されました。58歳でした。
お通夜は21日、葬儀は22日、札幌市西区の博善斎場にて。

朝10時自宅の重ねてある布団に横たわるようになっているのを奥さんが発見、
救急車を呼び病院へ。救急車の中ではあごの硬直がはじまっていた。
自宅で亡くなっていたため司法解剖を行いました。肝臓から嫌気菌が検出されました。
この菌は通常空気感染とか体内で出来ることがなく、大変珍しい菌だそうです。
肝臓内に10くらいのフーセンができ、破裂したのが死因です。苦しまずに亡くなりました。

2月頃から風邪の症状がありましたが市販の薬で対応していたそうです。
4月10日頃からたびたび肩がこると奥さんにマッサージを頼んでいた。
具合が悪いが病院には行きませんでした。
亡くなる1週間前ぐらいには、あまり食事もせず飲料水を多量に取るようになり
数日前には、飲み物も減り氷を口に含むだけになったようです。
体調が戻らないのが自分でもわかったので病院に行くと前日初めて言ったそうです。

林君も増毛から駆け付けてくれました。原田君のお姉さんも葬儀に参列しました。
移動学校同窓生一同に代わり出棺まで見守りました。
チョンコが、かわいそうでした。

                                                                           八木

訃報(チョンコ)

2010/4/20

またも、突然の訃報です。柳澤 元(チョンコ)が今朝(20日)亡くなりました。
死因は肝臓に菌か入ったとかです。一か月前から通院していたそうです。
明日(21日)お通夜で八木文が出席します。同窓会で生花を手配しました。

昨年末には、ロンドンのクマのところに行ったり元気だったはずなのに。
北海道旅行やレッツゴーの集まりのときの張り切った姿が忘れられません。

詳しい話は八木君がのちほど。

                                                                                 なかじま


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